"小泉劇場"

諸君らは果たしてこの言葉をいつ忘れたのだろうか。
小泉純一郎が行政から去った日か?
それならば、君はまんまとマスコミに踊らされてしまった一人として数えなくてはならない。よく考えてほしい、小泉ほどの戦略家が何故にも先を考えずして去ろうとしたのかを、何も語らずして消えて行ってしまったのかを。
では、安倍晋三が就任して辞めるまでの間であったか?
君はなかなか冴えているが、まだまだ大局観を養える余地がある。
さて、私が今になって"小泉劇場"という言葉を挙げたのか。諸君らは現に目にしているが、その絶え間ない動きに休むことを許されず、更には全ての挙動を知らなくてはならぬと思わせることを強いられているが故に、気づいていないのだ。諸君、"小泉劇場"はまだ幕を下ろしてはいない!いつ終わるのかも暗示させやしない。


さて、小泉が去り安倍が就任するという一昨年の流れはだれしもが予想できただろう。その時、諸君らは何をもって安倍に期待を持てたのか、私はそこを追求したいものだ。たいてい予想はつく。小泉に最も近く、また似通った政策を考えているからだ、というところが妥当か。あるいは人気があるからか。しかし、それらを支える根本的な理由ははてどこにあったのか。諸君らは何を見てそのように下したのか。これらはマスコミの所産である。
目を見開けばわかることであったが、小泉の後継者はあの三人の中にはいなかった。"後継"ではなく"真似"であった。諸君らが選んだのは"小泉を真似できる代替人物"であった。そのように考えたならば、安倍という人物にすぐに限界が見えることは確かである。諸君らが望む"小泉の代替者"は過不足なく"代替"される必要があり、少しでも隙間があろうものなら懐疑的になれるからだ。
それは安倍を襲った様々な問題が加速させた。安倍は問題を処理する能力はあっても"小泉"に"代わる"ものではなかったことを露見させた。

安倍政権が一年もつか持たないか、そんなことは一年前の総裁選よりも前に分り切っていたことだ。(もし安倍が「安倍カラー」を出すことができたのであれば、それは違う方向に進んでいたのかもしれない。)ここで諸君らに提示しておくことは、小泉・安倍をひとくくりの政権あるいは政策執行者と考えることをやめることだ。安倍が諸君らの生んだ小泉の劣化コピーであったことを認めるべきだ。
更に、安倍がこのような末路を辿ったということを、我々が知っていたのであるならば小泉純一郎という政治家も知っていたはずだと考えておくことだ。小泉について様々な評価を昨今なされているが、それら評論家に言わねばならないことは小泉は今起こっていることを既に分かっていて、いや、当たり前だと知っているという現実的推論を持てということが最大の論点である。


諸君、彼はなんと頭の切れる政治家であろうか。彼はおそらく新世紀の日本の政治を握る重要なカギである。彼がすべてを知っている。だが、私は彼が黒幕であるとは言わない。彼は積極ではなく消極的にすべてを知っているのだ。


今回の総裁選挙で言えることは、本当はまぎれもなく麻生が勝つはずであった。それはどの局面においてもいえる。
国民は望んでいるし、自民党にしてみれば安倍よりも実質を伴った頼れる政権になるはずであるからである。それをどうだ、福田という思わぬ伏兵がつき返してしまった。なぜだ。結論を言えば麻生が出るにはまだ早いのだ。今の政局において、最も危惧すべきことは安倍の業績を次の内閣総理大臣が背負わなくてはならないということであって、国民は否応なく注目し野党はこれぞとばかりに攻め込んでくる。その中に、麻生という人間を放り込んだとしよう。事態は果たしてよくなるのか?
私はそんな賭けはしたくない。むしろ誰かがリトマス紙にでもなってくれたら、と思う。つまり福田は先遣者として使わされたのだ、と。


あれほど麻生を後押ししていた自民党が、今になって手のひらを返した。福田の方が使いやすいからか?いや違う。麻生を劇中に出せる時間はまだまだ後であったのだ。
このことは麻生人気を強く後押しする。なぜかって?福田が安倍よりも奮闘したとしても麻生ほどでなければ、また安倍よりも劣っていれば、麻生には次の機会が出てくる。福田が淡々とすればするほど、麻生人気は高まる。


最後まで馬鹿なのはマスコミだ。
安倍人気を"人気"という言葉だけで祭りあげ、問題がやまねば囲い込み、小泉と離反した福田ならば、と手のひら返して麻生を退ける。
さて諸君、マスコミは今後さらに失態を犯すだろう。私は断言できる。はてさて、福田が小泉や安倍、麻生とは違う路線をたどると誰がわかるのか。
私にはどうも、福田がいい意味で裏切ってくれるような気がして、今後が楽しみでならない。