脱観念としてのケータイ小説。後篇

しかし、脱言語による脱観念を果たしたケータイ小説に対して感動しあるいは共感する読者は、いったい何を読み取っているのだろうか。実は唯物化という過程に紐解くカギがある。
小説を唯物化する過程においてケータイ小説は観念を払拭した。では何故払拭できたのか。私はその理由を、観念がわざわざ言語で表現されなくてもよいというところにあるからだと考えた。では、観念はどこにあるのか。小説という言語集合体にないのであれば、それを読書する主体としての読者自身しか残されていない。ケータイ小説は観念の排出先を読者に置いたのだ。


だからケータイ小説は、言語で飾られなくても文章全体を再構築する主体である読者がいる限り観念を包容する必要がない。そして読者は再構築できる観念を持ち続ける限り感動できる。
ケータイ小説は小説とその読者の双方向的なつながりの上で初めて、諸君らが歴代小説を読んだ時と同じように、感動を表出することができる。そしてケータイ小説は言語社会に立ち向かいまた読者がそれに迎合したことによって誕生した、巧妙な文学体系を取っている。


我々は、ケータイ小説はよくコミュニケーションがとられた小説であると認識しなおすべきではないだろうか。


#ケータイ小説を理解できない人間は既に老害化しているという衝撃の事実っていうエントリーに触発されて書いた。
#このエントリーで言っていることとの差異をあえて書く。
#id:aerodynamikにしても、それに対してこういう風に批評したid:yosituneにしても、
#やはり観念をとらえる手段を小説(というか言語)自体に求めている点で、私が言いたいケータイ小説の相互関係性とは全く違うのだー。