自己実在証明としての自虐行為。

んとね、「自分は社会から不要とされる存在」とか「自分は社会には受け入れられない存在」とか、そういった"ネガティブ"志向の人たちがとるについて考えたってだけのエントリーね。


(思考による精神追討あるいは物理的な攻撃による)自虐的行為は、一見すると自分の苦境や辛い現状に対して自暴自棄になっているから起こると状態解釈をしちゃうけども、まあ確かに当該者自身も自暴自棄になっているとは意識していると思うけど、実際のところああいうのは傷つけられる自分がいてこそできるのであって自己同一性を否定的に確立していると思うのよね。
「われ思うゆえにわれあり」なんていう演繹的な考えは"われ"が不確定な人(特に青年期あたりか)に言わせればそれ自体も疑ってしまうので、実証的なものでないと納得しづらいのよね。んでもって、排他的な要素を持っているのは不確定な自己が誰かに乗っ取られるような感覚がするから、すなわち他人と接しているときの自分は本当に自分なのか?って思うからそうなってしまうと。そうなると不確定な自己は自己存在を自分で探さにゃならんのだけど、それを探し出す道具としての社会的関係を乏しくしちゃっているものだから、自分だけを見つめすぎちゃうんだろうなぁ、と。自分を見つめるという過程において、長所を愛でることはないと思うのよ。だって長所って他人に指摘されないと意識できないじゃあないですか。逆に短所を攻め立てるのは簡単ですよ、普通じゃないもしくは普通を害するような行動だったら該当項目になれますから。


思考だけだと懐疑的になるので実体験から構成していく、その中で短所が集まりすぎると排除された自分が見つかったって思うようになると。で、自虐行為についてですが、自分を殊更に追い詰めるのは"傷つけられる存在"としての自己を精神的・肉体的に自覚できるんですよ。"痛い"って思うのはほかならぬ自分でしょ?だから自虐的行為は同一性を獲得するための行為なんじゃないかなーって思うわけです。不確定な自己は自縄自縛することで確定的な自己を作っている、って考えたわけですね。
ただ、そんな自分が嫌だって思う人もいると思いますよ。そういう人たちは"痛い"ことで生じる自分を否定して、別のところから自分を作らないといけなくなるんですよね。